
SNSを開くと、同年代の人が海外で仕事をしている。
平日の昼間にカフェでパソコンを開いている。
「今日はこの街から仕事」と書いてある。
それを見て、少しざわつく。
「自由でいいな」
「自分は何をしているんだろう」
画面を閉じても、しばらく残る。
でも、ここで一つ変なことがあります。
その人の人生を、丸ごと欲しいのでしょうか。
住んでいる場所も。
仕事の内容も。
収入の波も。
人間関係も。
移動の多さも。
将来の不安も。
全部まとめて入れ替えたいわけではないことがあります。
それなのに比較するときは、相手の一場面と、自分の人生全体を並べてしまう。
まず、何を比べているのか
「自由そうでうらやましい」
この一言の中身を少し分けてみる。
場所を選べることがうらやましいのか。
平日の時間を自分で決められることか。
誰かに認められている感じか。
好きな仕事で収入を得ていることか。
新しい場所へ行けることか。
同じ投稿を見ても、刺さっている場所は人によって違います。
ここが見えないままだと、
「あの人は自由。自分は不自由」
という大きすぎる比較になります。
でも、
「自分が欲しいのは、平日の午後を自分で決められる時間かもしれない」
まで小さくなると、話が変わります。
相手の人生ではなく、自分が欲しい条件が見えてくるからです。
こちらだけ、舞台裏を全部知っている
もちろん、画面の向こうに本当に自由な暮らしがあることもあります。
無理に、
「SNSなんて全部見せかけだ」
と思う必要はありません。
ただ、見えていない条件はあります。
その働き方になるまで何年かかったのか。
安定しない月があるのか。
移動を楽しいと思っているのか、疲れているのか。
何を手放して、その生活を選んだのか。
一方、自分については全部知っています。
止まった日も。
迷った時間も。
失敗したことも。
朝から機嫌が悪かった日も。
他人の公開された一場面と、自分の舞台裏全部を比べれば、条件は最初から揃っていません。
だから比較を禁止するのではなく、
何と何を並べているのか
を確かめる。
嫉妬は、相手になるための命令ではない
うらやましいと思ったら、少し嫌な気分になることがあります。
「こんなこと思う自分は性格が悪い」
と片づけたくなることもある。
でも、うらやましさの中には、自分の欲しい方向が入っていることがあります。
海外に住みたいわけではない。
でも、場所に縛られず働ける日は増やしたい。
有名になりたいわけではない。
でも、自分の作ったものを人に見てもらいたい。
その人と同じ人生を歩みたいわけではない。
でも、自分で予定を決められる時間は欲しい。
そこまで分かれば、比較から持ち帰るものは「負けた」という判定ではなくなります。
方向だけ、持って帰れる。
比較するなら、目的を決める
比較は、完全には止まりません。
他人を見る以上、自然に比べることはあります。
なら、比較するときに三つだけ確認する。
誰と比べているのか。
何を比べているのか。
何のために比べているのか。
自分を裁くためなら、比較はほとんど役に立ちません。
でも、
「自分は何が欲しいのか」
「どんな方向へ動きたいのか」
を知るためなら、使えることがあります。
うらやましい相手を見たとき、相手の人生全部を持ってこなくていい。
その中で、自分の針が反応したところだけを見る。
比較から判決を持ち帰らず、方角だけ持ち帰る。
それなら、相手のレーンを走らずに、自分のレーンへ戻れます。


