
何人かで話しているとき、急に話を振られた。
うまく返せなかった。
少し間が空いて、誰かが別の話を始めた。
それだけの出来事だったはずなのに、帰ってから何度も思い出す。
「あの返し、変だったな」
「会話が下手だと思われただろうな」
次に同じ人たちと会うときには、
「また変なことを言うかもしれない」
ではなく、
「自分はこういう場でうまく話せない人だ」
というところまで話が大きくなっていることがあります。
一度のうまくいかなかった場面が、その場だけに残らず、自分全体へ貼り付いてくる。
恥ずかしかった出来事を覚えていることと、その出来事を自分の説明書にすることは、同じではありません。
一場面に当たった照明が、全身まで照らしてくる
その日の出来事だけを書くなら、
「急に話を振られて、うまく返せなかった」
です。
そこへ、
「自分は会話が下手だ」
「こういう場に向いていない」
「人前ではいつもこうなる」
が足されると、場面の範囲が急に広がります。
昨日の数十秒が、今日の自分全体の説明になる。
恥には、そういう広がり方があります。
だから、消そうとする前に、範囲を戻してみる。
いつの出来事だったか。
誰がいたか。
何がうまくできなかったのか。
本当に「いつも」なのか。
まだ慣れていない場面だったのか。
初めての集まり。
慣れない相手。
突然振られた話題。
そこでぎこちなかったことと、自分という人間の価値は別です。
初心者の下手さは、初心者である証拠にはなっても、人として劣っている証拠にはなりません。
隠そうとするほど、恥が大きくなることもある
分からないことを聞けない。
初めてなのに、慣れているふりをする。
失敗したあと、その話題だけ避ける。
恥ずかしいことを隠そうとすると、
「絶対に見つかってはいけないもの」
のように感じ始めることがあります。
そんなときは、
「こういう場、まだ慣れてなくて」
「それ、知らないです」
と先に言えるだけで、隠す仕事が少し減ることもあります。
もちろん、何でも人に打ち明ければいいという話ではありません。
言わなくていいこともあります。
ただ、隠さなければ自分が壊れるようなものではない、と分かるだけでも違います。
客席まで、同じ明るさとは限らない
自分の失敗は、自分にはよく見えます。
言葉に詰まった瞬間も、
変な間も、
帰宅後に思い出した回数も、
自分だけは全部知っています。
でも、その場にいた人が同じ明るさで見ていたとは限りません。
気づいた人もいるでしょう。
変だと思った人がいた可能性もあります。
そこまで否定する必要はありません。
ただ、
「全員が覚えている」
「次もその目で見られる」
「この一場面が自分全部を説明する」
ところまでは、まだ決まっていません。
恥を感じなくなる必要はありません。
恥ずかしかった場面は、恥ずかしかった場面のままでいい。
ただ、その場面に当たった照明を、
自分全身へ向けたままにしない。
恥ずかしい経験を持っていることと、恥ずかしい人であることは違います。


