
これだけ覚えよう
- 「実際に起きたこと」と「自分がそこから考えたこと」を分けてみる。
- 「確認しました」と返事が来た。これは事実。「冷たい返事だ」「怒っている」は、自分が足した意味かもしれない。
- 人は過去の経験や思い込みによって、同じ出来事を違って受け取ることがある。
- 「それは本当に見えたこと? それとも自分が足した意味?」と一度考えてみる。
- 誤解に気づくとは、自分を責めることではない。分かった事実を増やして、もう一度見直すこと。
六文字
時間をかけて作った提案書を送る。
一週間かけて調べ、構成を三度組み直し、深夜に最後の一文を直した。
返ってきたのは、六文字だった。
「確認しました」
画面を見たまま、しばらく動けなかった。
冷たい。
気に入らなかったのだ。
あれだけ時間をかけたのに、失望させたのかもしれない。
——けれど、画面にあったのは、六文字だけである。
冷たいとは、書かれていない。気に入らなかったとも、失望したとも書かれていない。
その三つは、こちらが足したものだった。
人は、世界をありのままに見ているわけではない。
経験。教育。文化。過去に言われた言葉。
それらが一枚のレンズになって、目に入るものの色を決めている。
そのレンズが曇っているとき、事実と、自分が足した意味の区別がつかなくなる。
曇りに気づき、事実のほうを確かめ直すこと。それが、誤解修正である。
問いは、一つでいい。
「それは、見えた事実か。自分が足した意味か」
見えた事実は、六文字。
足した意味は、冷たさ。
分けてみると、足したほうにも理由があることが分かる。
以前、提案を突き返されたことがある。
自分の仕事に自信が持てない時期が続いている。
この相手には、前にも短い返事をもらった記憶がある。
私たちは時々、相手の行動を見ているつもりで、自分の内側にあるものを見ている。
相手の短さの理由は、まだ何も分かっていない。会議の合間だったのかもしれない。長く書くと催促に見えると思ったのかもしれない。単に、そういう文体の人なのかもしれない。
誤解が生まれる場所は、二人のあいだだけではない。
大きな声は、少ない数でも目立つ。
強い言葉で書かれた意見をいくつか読むと、それが多数派の考えに見えてくる。
実際には、何も言わずにいる人のほうが多いかもしれない。けれど、黙っている人の数は画面に出ない。
私たちは、現実を見ているつもりで、目立つものを見ているだけのことがある。
そして、誤解が直ると、人の見え方まで変わることがある。
会議でいつも黙っている同僚を、やる気がないのだと思っていた。
あるとき、その人が「大勢の前だと、言葉が出なくなる」と話した。
翌週から、その人には会議の前に意見を聞くようになった。
事実が一つ増えただけである。それだけで、目の前の人が、別の人に見えてくる。
誤解を直すことは、正確になることであると同時に、相手をもう一度見直すことでもある。
レンズは、自分では見えない。
見えないから、人は学び、人と話し、旅をし、本を読む。
どれも、自分のレンズを外から見せてもらう行為である。
一つ拭いても、また別のところが曇る。それでも、拭いた分だけ、世界は少しずつ形を取り戻す。
画面にあったのは、六文字だけだった。
自分は、そこへ、どんな字幕を足したのだろう。
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