第1章 「覚える」は、ひとつの動作ではない

引っ越しの朝だった。

段ボールは、ぜんぶ運び終えた。

荷物は、すべてこの部屋にある。

ひとつ残らず、ここにある。

それなのに、

ハサミ一本が、出てこない。

どの箱かは、わからない。

ないのではない。

あるのに、取り出せないのだ。

「記憶力がない」という言葉を、疑ってみる

うちの子は記憶力がない。

私は十六年間、家庭教師としていろんな家庭に出入りしてきたが、この言葉を何十回聞いたかわからない。子ども本人の口から聞くことも多い。おれ、記憶力ないから。私、覚えるの苦手だから。

みんな、この言葉を使うとき、記憶力というものを一個の能力だと思っている。腕力や視力と同じように、あるかないか、強いか弱いか。生まれつき決まっていて、テストのたびに測定される、一本のものさし。

でも、引っ越しの朝のことを思い出してほしい。

ハサミは、部屋にある。運び込む作業は終わっている。それでも出てこないのは、「運ぶ力」が足りなかったからではない。どの箱に入れたか、ラベルを貼らなかったからだ。あるいは、貼ったのに、開けて確かめる前に諦めたからだ。

「ない」ように見える記憶の多くは、これと同じ状態にある。

頭の中にないとは、限らない。入れ方と、探し方に、問題があっただけ。

だとしたら、「記憶力がない」という診断は、雑すぎる。骨折した人に「運動神経がない」と言うくらい、雑だ。

この章では、その雑な一語を、三つに分解する。分解できると、見える景色が変わる。子どもを見る目が変わり、かける言葉が変わる。本書全体の土台になる章なので、少しだけ付き合ってほしい。

記憶は、三つの工程でできている

記憶を家だと考えてみる。

新しい情報を覚えるとは、頭の中の家に、新しい住人を迎えるようなものだ。そう考えると、記憶には三つの工程があることが見えてくる。

一つ目は、迎え入れること。

情報がやってくる。玄関先に立っている。それをただ眺めるのか、名前を聞き、顔を覚え、部屋まで案内するのか。ここで扱いが雑だと、住人は家に上がらないまま帰ってしまう。専門的には記銘と呼ばれる工程だが、本書ではシンプルに「入れる」と呼ぶ。

二つ目は、住まわせること。

迎え入れた住人に、そのまま居続けてもらう。ただし、放っておくと住人は静かに存在感を失っていく。ときどき顔を見に行く必要がある。これが保持。本書では「残す」と呼ぶ。

三つ目は、取り出すこと。

必要なとき、その住人の部屋まで、自分の足でたどり着く。ここでいう「道」は、家の内外を厳密に決めた比喩ではない。廊下でも、玄関まで続く外の道でもいい。住人の部屋までの経路を、まとめて「道」と呼ぶ。何度も通っていれば迷わない。一度も通ったことがなければ、住人が部屋にいても会いに行けない。これが想起。本書では「取り出す」と呼ぶ。

そしてもう一つ、本書でこの先ずっと使う言葉をお渡ししたい。時間をあけて、思い出す形で住人に再会すること。残すためでも、取り出す練習でも、やることは同じ往復だ。この往復をまとめて、本書では会いに行くと呼ぶ。これは工程の名前ではなく、行為の名前である。

入れる。残す。取り出す。

この三つは、別々の工程だ。そして大事なのは、別々の工程だから、別々に失敗するということだ。

入れ方が浅ければ、そもそも住人は家にいない。

残し方を怠れば、住人はいたのに、いつの間にかいなくなっている。

取り出す練習をしていなければ、住人は部屋にいるのに、会いに行く道がわからない。

同じ「覚えられない」でも、中身がぜんぶ違う。そして中身が違えば、打ち手も違う。ここを見分けずに「もっと頑張れ」と言うのは、故障箇所を調べずに車のアクセルを踏み込むようなものだ。

私は、どの工程で失敗していたのか

小学生の頃、百人一首を覚えて、先生の前でそらんじるという課題があった。

私は覚えた。少なくとも、覚えたつもりだった。札を見ながら何度も唱え、よし、と思って先生の列に並ぶ。ところが、順番が来て先生の前に立つと、出てこない。戻って、また覚え直す。また並ぶ。また出てこない。そのうち先生に、厳しく注意された。

当時の私は、自分を「記憶力のない子」だと思った。周りもたぶん、そう思った。

でも今なら、三つの工程で点検できる。

まず、入れ方。私は札の文字を目で追って、口で繰り返していただけだった。歌の意味も、詠まれた景色も、何も思い浮かべていない。音の列を、音の列のまま押し込もうとしていた。住人の名前も顔も知らないまま、玄関に立たせていたようなものだ。

次に、残し方と取り出し方。私は「覚え直してすぐ」に先生の列に並んだ。つまり、覚えてから思い出すまでの時間を、ほとんど取っていなかった。列に並んでいる数分間だけ持てばいい、という運び方だ。これは記憶ではなく、綱渡りに近い。そして列で待つあいだ、私は札を見て確認こそすれ、何も見ずに思い出す練習は一度もしていなかった。本番でいきなり、初めての道を歩かされていたわけだ。

三工程、ぜんぶ失敗している。見事なくらいだ。

しかし、当時の私に足りなかったのは、記憶力だろうか。

違う。方法だ。少なくとも当時の私は、入れ方も、残し方も、取り出し方も、言葉として教わる機会がなかった。 「覚えなさい」という号令だけがあった。そして失敗すると、注意だけがあった。

あなたの子どもの「覚えられない」も、もしかすると同じ構造の中にあるかもしれない。

子どもは、本当は覚える天才である

ここで、反対側の証拠を出したい。

「記憶力がない」はずの子どもたちが、平気で覚えているものがある。

好きな曲の歌詞。ゲームのマップ。サッカー選手の名前と顔と背番号。アニメの登場人物の関係図。去年見た映画のあらすじ。友だちの誕生日。

私が見てきた生徒たちの中に、英単語は十個も覚えられないのに、ゲームに出てくるモンスターの名前なら百体以上、属性や弱点までセットで言える子がいた。歴史の年号は入らないのに、推しのグループのデビュー日からメンバーの出身地まで淀みなく語れる子がいた。

この子たちの脳は、壊れているだろうか。

むしろ逆だ。とてもよく働いている。

ただし、条件がある。意味があり、感情が動き、物語や場所とつながっているものが、勝手に住みついていきやすい。歌詞にはメロディと感情がある。ゲームのマップには自分が歩いた経験がある。選手の名前には、試合の興奮という物語がついている。

つまり、人は覚えられないのではない。

覚えられる形になっていないものを、覚えられないだけなのだ。

英単語の綴りや歴史用語は、そのままでは、意味も感情も物語もついていない、ただの文字列としてやってくる。玄関先に、名札もつけずに黙って立っている知らない人。それを追い返すのは、家の主人として、むしろ正常な判断ですらある。

だから本書がこれからやることは、子どもの記憶力を鍛えることではない。

文字列を、住人に変える方法を、親であるあなたに渡すことだ。歌詞やゲームのマップが勝手に覚えられてしまう、あの仕組みの側に、勉強の中身を運び込む。それが「覚え方を教える」ということの正体である。

ノートがきれいな子ほど、見抜きにくい

三工程の目で子どもを見ると、今まで見えなかったつまずきが見えてくる。

私が教えてきた中で、いちばん見抜きにくかったのは、まじめな子のつまずきだ。

ノートはきれい。問題集も解いている。提出物も出す。親から見れば、やることはやっている。なのに、テストになると点が出ない。少し形を変えて聞くと、出てこない。

たとえば「墾田永年私財法」を、その七文字としては覚えている。でも、それが何を認めた法律で、なぜ出されて、その結果、世の中がどう変わったのかは、頭の中にない。言葉の表面だけがあって、言葉の奥にあるものが、何もつながっていない。

これは、怠けではない。入れ方が浅いのだ。文字列を文字列のまま、まじめに反復している。まじめであればあるほど、浅い入れ方を大量に繰り返すので、「やっているのにできない」という一番つらい状態に陥る。そして本人は結論する。自分は頭が悪いんだ、と。

三工程を知らない大人は、この子に「もっとやりなさい」と言う。浅い入れ方の回数を、さらに増やさせる。

三工程を知っている大人は、違う場所を見る。この子の問題は量ではなく、入れる工程にある。だったら、反復の回数を増やすのではなく、一個の言葉の迎え入れ方を変えればいい──と、打ち手が変わる。

同じ「覚えられない」を見ても、立っている分岐が違えば、選ぶ道が違う。

三つの質問に、翻訳する

ここまでを、家庭で使える形にまとめる。

子どもが「覚えられない」とき、「なんで覚えられないの」と聞きたくなる。でもこの質問には、子どもは答えられない。忘れた理由など、本人にもわからないからだ。残るのは、責められたという感覚だけになる。

代わりに、親が心の中で、三つの質問に翻訳する。

一つ目。どうやって入れた?

ただ読んだだけか。書き写しただけか。それとも、意味を考えたり、絵にしたり、何かと結びつけたりしたか。──入れる工程の点検。

二つ目。入れてから、会いに行ったか?

覚えたあと、放置していないか。翌日、三日後に、もう一度触れたか。──残す工程の点検。

三つ目。取り出す練習をしたか?

ノートや教科書を「見て確認」しただけではないか。何も見ずに思い出そうとする時間が、一度でもあったか。──取り出す工程の点検。

この三つの質問は、当てるための道具ではない。責める言葉を、点検する言葉に変えるための道具だ。犯人捜しが、故障診断に変わる。そして故障診断なら、子どもと一緒にできる。

実を言えば、この三つの質問に答えていくことが、そのまま本書の残りの章になっている。入れ方は第2章で、残し方は第3章で、取り出し方は第4章で、それぞれ具体的な技術にする。そして第2部からは、三つの工程を一度に底上げしてしまう強力な方法──頭の中の家そのものを使う、メモリーパレスという技術に進む。

今夜の小さなワーク

まだ、何も直さなくていい。今夜は、見るだけでいい。

子どもが最近「覚えられなかった」ものを、一つだけ思い浮かべる。漢字でも、英単語でも、九九でも、理科の用語でもいい。

そして、三つの質問を自分に向けてみる。あの子はあれを、どうやって入れていたか。入れたあと、会いに行く機会はあったか。取り出す練習は、一度でもあったか。

答えが「わからない」でも構わない。わからないと気づけたなら、今まで自分が、工程を見ずに結果だけを見ていたと気づけたということだ。それがこの章のゴールである。

ChatGPTに聞くなら

子どもの様子をそのまま書いて、こう聞いてみてください。

「小5の子どもが、漢字を10回ずつ書いているのにテストで書けません。この子は『入れる・残す・取り出す』のどの工程でつまずいていそうか、可能性を挙げてください」

(このページをスマホで撮る、スクリーンショットを取る、音声入力を活用するなどすれば手早いです。)

「記憶力がない」という言葉を、今日から使うのをやめてみる。あの一語は、三つの工程をまとめて塗りつぶしてしまう。塗りつぶされた場所に、打ち手は生まれない。

記憶力とは、才能の名前ではない。

入れる、残す、取り出す──三つの工程の、合計点である。

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