序章 なぜ、子どもに「勉強」ではなく「覚え方」を教えるのか

夜の食卓を思い浮かべてほしい。

子どもが漢字の練習をしている。同じ字を十回書く。ノートには「謝」という字がきれいに並んでいる。あなたは横からのぞき込んで、「覚えた?」と聞く。子どもはうなずく。ノートを閉じさせて、口頭で聞いてみる。「じゃあ、しゃざいの『しゃ』、書ける?」

鉛筆が止まる。

さっきまで十回書いていた字が、出てこない。子どもは天井を見て、消しゴムをいじって、それから小さな声で言う。「わかんない」。

このとき、多くの親の頭に浮かぶ言葉は、だいたい決まっている。

さっき書いたでしょ。なんで忘れるの。ちゃんと集中してた?

私も、その言葉が浮かぶ気持ちはよくわかる。目の前で十回書いたものが出てこないのだから、集中していなかったとしか思えない。やる気の問題、努力の問題、あるいは──口には出さないけれど──この子の頭の問題。そんな不安が、ちらりとよぎる夜もあるかもしれない。

でも、ここで一度だけ、立ち止まってほしい。

この子は本当に、「覚えたのに忘れた」のだろうか。

覚えていたのではなく、「見ればわかる」だけだった

種明かしをすると、この子はおそらく、最初から覚えていない。

正確に言えば、覚えたつもりの状態と、思い出せる状態は、まったく別のものだ。ノートを見ながら十回書くとき、子どもの目の前には常にお手本がある。手はお手本をなぞって動く。書き終えるたびに、正しい字がそこにある。だから本人も「書ける」と感じる。親も「書けている」と感じる。

けれど、そのとき脳の中で起きていたのは、記憶ではない。確認だ。

見ればわかる。見れば書ける。それは、地図を見ながら歩ける状態に似ている。地図を取り上げられた瞬間、自分がどこにいるのかわからなくなる。テストとは、地図を取り上げられた状態で歩けと言われることだ。

そこで初めて気づく。自分は覚えていたのではなく、見ればわかる状態にいただけなのだ、と。

これは子どもの怠慢ではない。集中力の欠如でもない。むしろ子どもは、大人に言われたとおり、まじめに十回書いた。問題は、その「十回書く」という方法が、記憶を作る作業になっていなかったことにある。

つまり、この子に足りなかったのは努力ではない。覚え方だ。

「覚える内容」は教わる。でも、「覚え方」を体系的に学ぶ機会は少ない 。

考えてみると、不思議なことがある。

学校は、覚えるべきことを大量に渡してくる。漢字、九九、都道府県、歴史の年号、英単語、理科の用語。塾に行けば、さらに増える。子どもが小学校の六年間、義務教育の九年間で覚えるように求められる情報の量は、大人が想像するよりずっと多い。

ところが、それだけの量を渡しておきながら、「どうやって覚えるか」を体系的に教えてくれる場所は、あまり多くない。

覚えなさい、とは言われる。何回も書きなさい、繰り返し読みなさい、とも言われる。でもそれは、料理を教えずに「おいしく作りなさい」と言うのに近い。包丁の持ち方も、火加減も教えずに、結果だけを求めている。

そして、うまく作れなかった子には、こう言われる。努力が足りない、と。

私は、これはかなり奇妙な状況だと思っている。覚えることがこれほど要求される世界で、覚える技術そのものは、なぜか各家庭の自己流に任されている。たまたま自分に合う覚え方を見つけた子は「記憶力がいい子」と呼ばれ、見つけられなかった子は「勉強が苦手な子」と呼ばれる。

でも、その差は才能の差ではないかもしれない。方法を知っているかどうかの差かもしれない。

この本は、その方法を、親であるあなたに渡すための本だ。

記憶は一つの動作ではなく、三つの工程でできている

方法の話に入る前に、一つだけ、この本全体を貫く見取り図を渡しておきたい。

私たちは「覚える」を一つの動作のように扱う。覚えた、覚えていない、記憶力がある、ない。まるでオンとオフしかないスイッチのように。

でも実際の記憶は、三つの工程でできている。

一つ目は、入れること。情報を、脳が扱える形に変換して受け取る工程。これを記銘と呼ぶ。

二つ目は、残すこと。入れた情報を、時間がたっても使える状態で保っておく工程。これを保持と呼ぶ。

三つ目は、取り出すこと。必要なときに、必要な情報を引っぱり出してくる工程。これを想起と呼ぶ。

この三つは、それぞれ別の工程で、それぞれ別のコツがある。そして重要なのは、子どもが「覚えられない」とき、多くの場合、三つのどこかでつまずいているだけだ、ということだ。

入れ方が浅かったのかもしれない。ただ眺めただけで、意味も映像もついていなかったのかもしれない。残し方に問題があったのかもしれない。一夜漬けで詰め込んで、そのまま放置していたのかもしれない。あるいは、取り出す練習を一度もしていなかったのかもしれない。見て確認するだけで、思い出す訓練をしていなかったのかもしれない。

さっきの漢字の子も、おそらく三つすべてでつまずいていた。「謝」に意味も物語も与えず(入れ方)、書き終えたら振り返らず(残し方)、お手本なしで書く練習もしていなかった(取り出し方)のだとすれば、出てこないのは自然なことだった。

こう分解できると、親の言葉が変わる。

「なんで忘れたの」は、質問として機能していない。子どもは理由を知らないし、責められたことだけが残る。代わりにこう聞ける。「どんなふうに覚えた?」「その字、何かの絵に見えなかった?」「お手本を閉じて、一回だけ書いてみようか」。

責める言葉が、工程を点検する言葉に変わる。これだけで、家庭の勉強の空気は、思っているよりずっと変わる。

この本が目指すもの、目指さないもの

先に、この本が目指さないものを言っておく。

この本は、子どもを天才にする本ではない。読んだ翌週にテストの点が跳ね上がることを約束する本でもない。そういう約束をする本や教材はたくさんあるが、記憶は魔法ではないので、私はその約束をしない。

この本が目指すのは、もっと手前にある、しかしずっと大事なことだ。

それは、子どもが「自分は覚えられる」と感じる最初の体験を、家庭で作ることだ。

覚えられない経験を重ねた子は、勉強が嫌いになる前に、まず自分を疑うようになる。どうせ覚えられない。自分はバカだから。その自己像は、点数よりもずっと深いところで、その後の学びを蝕んでいく。

逆に、たった十個でもいい。自分なりの方法で覚えて、翌日それを思い出せたという体験は、子どもの中に小さな確信を作る。覚えられないんじゃなかった。やり方を知らなかっただけだった。

その確信を渡すために、この本では、記憶の三つの工程の使い方と、三つの工程のもっとも強力な応用であるメモリーパレス──頭の中のよく知った場所に情報を住まわせていく技術──を、家庭で親子が使える形にして紹介していく。難しい道具は何もいらない。必要なのは、子どもがよく知っている場所と、少しばかり変な想像力だけだ。

親のあなたが、すべての教科を教えられるようになる必要はない。英単語の意味を全部知っている必要も、歴史の年号を覚え直す必要もない。

あなたに覚えてほしいのは、教科の中身ではなく、覚え方の型だ。そして、その型を子どもに手渡すための、いくつかの質問の仕方だ。

記憶とは、情報を頭に押し込むことではない。自分の中に、世界の置き場所を作っていくことだ。

その置き場所の作り方を、これから一緒に見ていく。

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